着物屋さんのことを呉服屋といいます。
呉服屋の孫のくせに、今まで深く考えたことがなかったのですが、「呉服」って何でしょうか?
それは、「呉の国の衣服」です。
中国の「呉」です。
呉の国の衣服は、胸元で襟合わせをするものでした。
それが日本に伝わって来たものが、着物の起源となります。
このコーナーでは、大陸から渡って来た着物の原型がどのように日本独自の発展を遂げ、現在の姿に落ち着いたのかをお話ししていきます。
さあ、着物の歴史を紐解いてみましょう!
古墳時代の日本では、衣服の襟合わせは右前、左前の両方が存在していました。
現在のように右前(右の襟を先に胸に合わせて、左の襟をその上に重ねる)になったのは、奈良時代と言われています。
飛鳥時代から、儀式などにおける服装は中国の「隋」にならって形式化して行き、それがだんだん儀礼化と誇大化を続け、平安時代の貴族が着ていた、いわゆる「有職装束」となりました。
十二単とかですね。一度は着てみたいと思っているのですが、すごく重いらしく、大変そうですね。トイレは無理そう(笑)。
さて、鎌倉時代、武家社会に入りますと、行動的な様式へと変化を遂げます。
公家社会では重ね着で内側に着ていた「小袖」を、表側に出したイメージですね。そんなわけで昔は平織りなどの無地だったものに、絞り染めや摺り絵、描き絵などの装飾が施されるようになります。
そうして室町時代に小袖が一般的な衣服になります。
江戸時代には武家の男子は裃に袴、女性は小袖に打ちかけが礼装という状態になります。
その後、平穏な時代を迎え、儀式や儀礼が広く民間になじんでいく過程で、晴れ着としての社交儀礼の小袖がだんだん日常の衣装と混同されて広がって行きました。
着物の加工技術もバリエーションが増え、絞り染めや刺繍に加え、友禅染などが出てきます。
明治以降、四民平等の時代となり、誰もが自由に服装を選べるようになりました。
そこで着物は庶民の間にも定着し、裾を引きずっていた儀礼服なども、行動的になって「おはしょり」をして裾を引きずらなくなりました。
柄行きも様々になり、おしゃれの幅も広がりました。
帯も「名古屋帯」が生まれて結びやすくなり、羽織が登場したりして、ほぼ現代のスタイルが整ったと言えます。
戦後、洋服が入ってきて、着物がだんだんと儀礼的な服装になりつつあるのは残念ですね。
個人的には、もっと普段着の着物を定着させたいと思っています。
定着させたいというより・・・消滅させたくないです。
普段着着物、着られる方はぜひ着て歩いてください。
着物の魅力を広めて行きましょう。
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